『信心の世界、遁世者の心』:無住と中世の人々の心に触れる旅
無住の世界に足を踏み入れる
本を手に取るとき、私はいつも少し緊張します。新しい世界に足を踏み入れるというのは、私にとってとても特別な行為だからです。今回、私が旅に出たのは『信心の世界、遁世者の心 日本の中世〈2〉』という、大隅和雄さんの本を通してのことでした。この本を読むことは、中世の日本に生きた無住という僧侶とその時代の人々の心を探る旅でした。
無住という名前は、もうすでに何かを捨てているような響きを持っています。実際、彼の名が示す通り、彼は長母寺に40年も住持としていながら、どこか浮世離れした存在だったのでしょう。彼の書いた『沙石集』や『雑談集』は、どちらも控えめなタイトルながら、読んでいくうちに心にしみてくるものがありました。説話集として知られているこれらの作品ですが、大隅さんはそれを単なる物語の集合体としてではなく、無住の信仰の遍歴として読み解いています。
中世の人々の信心と現代の私たち
本を読み進めるうちに、私は中世の人々の信仰の姿に心を寄せるようになりました。無住が生きた時代は、法然の浄土宗や禅宗など、新しい仏教の流れが次々に起こった時期。そんな変革の時代にあって、無住はどうやって人々に仏の教えを説いたのでしょうか。彼が説いていたのは、文字の読み書きもできない庶民に向けたシンプルで心に届く説法だったと言います。私はそれを「じわじわ、きました」。私たち現代人も何かを信じ、何かにすがりつきたいときがある。中世の人々が見えない神仏の存在を信じ、その言葉を夢を通じて聞いていたという指摘には、私自身の心の片隅にある無形の信仰を思い出させられました。
私たちは、見えないものや、説明のつかないものに対する二重の基準を持っていると感じます。大隅さんが指摘するように、中世の人々が神仏のお告げで生まれ変わりや運命を知りつつ、現実的な考え方もしていたことは、私たちにも通じるものがありますね。科学が発達した現代でも、心のどこかで神秘を信じる気持ちは消えません。
無住と私の静かな対話
無住という人物を通して中世の人々の心を見ていく旅は、私にとって静かな対話のようでした。無住は、派手なことを好まず、静かに、しかししっかりと自分の信仰を語り、説きました。彼の遁世者としての心は、どこか私の心にも響くものがありました。現代の私たちも時に現実から離れ、一人静かに自分の心と向き合うことが必要なのかもしれません。
本を閉じると、私は静かに心を揺さぶられていることに気づきました。無住の生涯や彼が見た中世の世界は、どこか遠い昔の話なのに、まるで昨日のことのように感じられるから不思議です。大隅さんの語り口も、決して派手ではなく、静かに、しかし深く心に入ってきます。読後に残るのは、どこか静かで温かい感情でした。
現代に響く歴史の声
今回の読書を通して、私は中世の人々の信仰や心の在り方が、現代の私たちにも深く響くものであることを改めて感じました。無住のように、静かに生き、静かに語ることの尊さを教えられた気がします。そして、そんな無住の声を聞くことができたことに、私は心から感謝しています。
これからも私は、本を通して様々な時代や人々の心に触れていきたいと思います。その旅はいつも新しい発見と共にあり、私自身の世界を少しずつ広げてくれるのです。この『信心の世界、遁世者の心』も、その旅の一部として、私の心に残り続けることでしょう。