街の「場所」が消えるとき、私たちは何を失うのか
渋谷から「場所」が消えていく
ある日、ふと手に取った一冊の本が私を深い思索の世界へと誘いました。伊東豊雄さんの『この社会に、建築は、可能か』です。この本の冒頭を読んで、まず心を掴まれたのが「渋谷から『場所』が消えていく」という言葉でした。渋谷といえば、私にとっても若い頃の記憶が詰まった場所です。友人と待ち合わせして映画を観たり、カフェで長時間おしゃべりしたり、時にはただぼんやりと人の流れを眺めていたりしました。でも、最近行くと、そこはどこか違う場所のような気がしてなりません。新しいビルが次々と建ち、古い建物が取り壊され、変化のスピードに心が追いつかないのです。
伊東さんは、本の中で「場所」がどう消えていくのか、そしてそれが人々の暮らしにどのような影響を与えるのかを問いかけています。「場所」は単なる物理的な空間ではなく、そこに流れる時間や人々の記憶が重なったものだと。確かに、あの頃の渋谷には、ただの街以上の何かがあったように思えます。それは、私たちが過ごした時間、交わした言葉、そしてそこで感じた感情の全てです。
建築が生む「生きる力」
伊東さんは「美しい建築をつくること」と「失われつつあるコミュニティを回復すること」を建築家の使命として挙げています。その中でも「生きる力」を与える建築という考えに深く共感しました。生きる力とは、「動物的な生命力」とも表現されるもので、現代のバーチャルな技術がそれを妨げていると指摘されています。技術が生活を便利にする一方で、どこか人間らしさを奪ってしまっている、そんな感覚は私自身も感じることがあります。
特に印象に残ったのは、「せんだいメディアテーク」の話です。建物のデザインが自然とのつながりを感じさせ、内にいても外にいるような感覚を生むというのです。これこそが、ただの建物ではない、「生きる力」を与える場なのだと思いました。私たちが日々暮らす場所が、こうした力を持つことができれば、どれほど豊かな生活が送れるでしょうか。
「みんなの家」に見る“生きられた家”
東日本大震災後、仮設住宅暮らしの人々のために建てられた「みんなの家」というプロジェクトについても触れられています。これは作品とは言えない建物だが、地域の人々にとってなくてはならない場となっているといいます。私も震災後にボランティアで東北を訪れたことがあり、その時感じた人々の絆や土地との密接な関係が、この「みんなの家」にも息づいているのだろうと想像しました。
著者が述べる「生きられた家」という概念は、単に建築家が設計した家とは異なり、そこに住む人々の生活や記憶が染み込んだ家のことを指します。こうした家が持つ力こそが、本当に必要とされるものなのかもしれません。
未来の街に求めるもの
伊東さんの本を読み進めるうちに、私自身も「場所」や「暮らし」について改めて考えさせられました。街がどんどん変わっていく中で、私たちは何を大切にしていけばいいのか。技術が進化し、生活が便利になる一方で、忘れ去られていくものが確かにあるように思います。それは、私たちの記憶や心の拠り所となる場所です。
未来の街がどのように変わっていくのか、私にはわかりません。ただ、伊東さんが示してくれた「生きる力」を与える場所が、未来の街の中に増えていくことを願ってやみません。それが、人々の心を満たし、新しい記憶を紡ぐきっかけとなるのならば。
この本を通じて、私が感じたこと、それは「場所」とは単なる空間ではなく、そこに住む人々の記憶や思いが重なったものだということ。そして、そうした場所が生み出す力こそが、私たちの暮らしを豊かにするのだということ。伊東さんの言葉が、今も私の心に響いています。