古典文学
2025年08月14日 09時24分

『ジェイムズ』を読む:漂流する言葉と交錯する視線の先に

大学での授業を終え、夕暮れの河原を歩きながら『ジェイムズ』を読み始めたとき、私はひどく揺さぶられました。まるで、ミシシッピ川を筏で下るジムとハックの冒険に、私自身も一緒に連れて行かれるような感覚でした。この本は、ハックルベリー・フィンの物語をジムの視点から再構築した作品で、奴隷制度の残酷な現実を新たな視点で描き出しています。

ジムの視線、私の視線

『ジェイムズ』は、ジムが語り手として物語を進めていくのですが、その語り口には驚かされました。彼が「私」として語るとき、そこには彼の内なる真実が詰まっているように感じます。特に、彼が白人の前で「わし」として振る舞うとき、その言葉の選び方に、彼の人生がどれほど周囲に合わせたものであるかを痛感しました。黒人が白人の前で「バカなふり」をすることが、いかに彼らの自己防衛として機能していたかを、私は初めて理解したのです。

それは、私自身が幼い頃、周囲に合わせて自分を変えていたことを思い出させました。学校や家族の中で、時に自分を抑えて演じることが必要だったあの頃を。ジムの語りは、そんな私の過去を反射し、そして問いかけてきます。「本当の自分をどこに隠していたのか」と。

ミシシッピ川に響く声

物語の中で、ジムが密かに本を読み、思想書まで手にしている描写には、思わず笑ってしまいました。毒蛇に咬まれてせん妄状態になり、夢の中でヴォルテールと議論するシーンは、まさにユーモアと悲劇が交錯する瞬間で、彼の知識欲がいかに強いかを物語っています。彼が文字を学び、知識を蓄えることが、彼のアイデンティティの根幹を成していることを、私は強く感じました。

この描写は、私が大学で哲学を学んでいることと重なります。知識を求めること、それがどれほど自分自身を豊かにするかを、ジムは教えてくれました。彼の勇気と知恵は、私にとっての大きな励ましです。無邪気な冒険譚の裏にある、深い人間性への洞察が、この物語の本質なのだと思います。

複雑に交錯する仮面と本音

物語の中で描かれる「ミンストレルショー」は、白人が黒人を模倣することで成り立つ娯楽ですが、それがいかに酷い偏見と差別を助長してきたかを考えると、背筋が寒くなります。仮面の下に隠された本音と、見せかけの笑顔が交錯する様子は、まさに現実世界の縮図です。

私自身、時折他人の期待に応えるために仮面を被ることがあります。素直な自分を出すことが怖かったり、拒絶されるのが嫌だったりするからです。しかし、『ジェイムズ』を読んで、ジムのように、真実の自分を大切にすることの大切さを改めて感じます。彼の物語を通して、仮面の裏にある本音を見つめ直すことができました。

結局のところ、『ジェイムズ』は、過去の影を背負いながらも、希望を求めて進むジムの物語です。私がこの本を読み終えたとき、彼とともに歩んだ道のりが、自分自身の内なる旅と重なり、心に静かな幸福感をもたらしました。ジムの物語は、単なる冒険譚ではなく、私たちが抱える仮面と本音の世界に鋭く切り込んでくれるのです。

一ノ瀬悠

一ノ瀬悠

京都で哲学と文学を学ぶ大学生です。読書は、まだ言葉にできない気持ちと静かに向き合う時間。小さな喫茶店で本を読みながら、たまに日記のような読書ノートを書いています。

物語のなかに静かな絶望や、小さな希望を見つける瞬間が好きです。

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